【展示会】坂本龍一 設置音楽展
2017年4月4日(火)から5月28日(日)までワタリウム美術館で開催している
「坂本龍一 設置音楽展 ryuichi sakamoto async」に行ってきた。
生活音を使った音楽、
という言葉に惹かれ気になっていたこの展示。
この展示で使われている音楽は「async」というアルバムに収録されている。
実際に展示会に行き、受けた音楽の印象は
生活というよりもむしろ、人生、だった。
展示は2階から4階にかけて行われている。
美術館の2階から3階そして4階と上がるたびに、
ライフステージも変わっているように感じた。
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2階、
一人の人間が抱く様々な感情、
それと、その感情を引き起こした出来事。
二つの軸は並行していて、時折入れ替わりながら話が進んでいく。
リアルで生々しいのに、その様子を冷静に見ている自分がいる。
3階、
人がいない部屋は人がいる部屋よりも人を感じさせる。
終わりがないように感じていた生活を
その生活に終わりがあることを知った自分が見ている。
「ああ、あの時はよかった」とか、
様々な出来事を思い出すなどはなく、ただ見ている。
4階、
そしてまた、新しい物語へ向けて準備が始まる。
光がだんだん大きくなり、着地する場所を見つける。
それから先の記憶はきっとない。
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あくまでも個人的な意見だが、
「状態」に溺れる音楽だと思った。
それと、宗教的な音楽だと感じた。
具体的な宗教ではなく、
むしろ様々な宗教を包括できる大きな意味での宗教。
私は音楽のことをよく知らない。
それでも、ただこんな素敵な音楽を作れる人間がいることに驚く。
【習い事】初めての絵画教室(第一回目)
27歳になり、初めて油絵に挑戦しています。
学生の頃は毎日なんだか騒がしく、
素直に自分の好きなことに向き合えていなかったように思います。
本当ならば選択肢は無限大で好きなことができる自由な時間なはずなのに、
何者かになろうと躍起になっていました。
すぐに形にしようとばかりして、
焦って焦って、結局何にも没頭できなかった。
好きなこと探しばかりしていて、
本当に好きなことをすることを忘れていた。
単純に、やりたいことをやっていたらいい。
そしたらどうありたいのかは見えてくる、と学生時代の自分に言いたい。
社会人になったからと言って何かが大きく変わったわけではないけれど、
平日は好きなことばかりできるわけではない、
だから休みの日は本当に好きなことをやろうと思うようになりました。
だから、27歳になり、初めて油絵に挑戦しています。
絵画教室に行って油絵の体験をしてきました。
教室は古いビルの三階。
ビルの中に入ると絵の具の匂いがしました。
教室に付き「体験に来ました」というと、
説明もなくすぐにキャンパスの前に案内されました。
モチーフを用意してくださり、
「まず今日は下書きまで完成させましょう」と一言。
同じようにその日体験に来ていた高校2年生ぐらいのつるんとした女の子は、
そう先生が言うと、早速すごい勢いで書き始めた。
一方、私はモチーフをどう枠の中に配置するかで小一時間。
その後も物の大きさや角度などを微調整し続けあっと言う間に三時間がすぎた。
鉛筆でもの輪郭を書き、
その上からフィキサチーフというスプレーをかけて
鉛筆で書いた下書きが消えないようにしました。
そのあと、テレピン油で溶いたこげ茶色の絵の具でキャンパス全てを塗り、
ひとまず1回目の体験は終了。
少しでもイラストを普段から書いていてよかったと思った。
絵を書く時に必要なのは、もののを観察すること。
そのものがどう見えているか、
周りのものとのバランスはどう取れば良いか、考えて書くこと。
そんな絵を書く上での常識的なところを事前学習していなかったら、
キャンパスを前に何も手を動かせていなかっただろう。
先生は油絵自体は初めてかどうか聞いてきたが、
それ以上何も聞かなかった。
自由だ、と思う一方で、「初めてなんです。」と弱気になる暇もなく、
自分の実力を試された気がした。
やっぱり自由だ。
普通社会に出ると何をしてきたのか、まずは説明から始まる。
それがないだけなのに、自由と感じた。
【イラスト】スケッチブック
ア スケッチブック イン ア スケッチブック
予告 絵画教室と「設置音楽展」について近々書きます。
4/30 絵画教室について書きました。
5/7 設置音楽展について書きました。
【イラスト】革靴
ずっと付き合える革靴が欲しくて、歩いていたらドクターマーチンにいました。
名前はエリーザ。
【エッセイ】おかねとじかんのお話
今朝ニュースで自殺による経済的損失は4594億円だと言っていた。
自殺した人が生きていれば得られていた生涯年収の推計らしい。
「4594億円という損失額を明示することで、
自殺をなくさなければと思ってもらえるようにした」
そうコメントしている人テレビの中の人は
何も可笑しいことなんぞ言っていません
という顔をしている。
この人のコメントは、
「その人が生きれていれば、4594億円生み出されたのにもったいない」
そう言っているのと同じ。
でも、その人が生きる意味は、4594億円を生み出すことにあるのだろうか。
私も社会人になって、時間をお金に置き換えて考えるようになった。
特に平日に休みを取るときになんか、
「今日・・・・円もらえるはずだったのに、自ら・・・・円手放した。」
そうを思う。
時間をお金に置き換えて考えてしまう。
結局は私もニュースの中の人と同じなんだろう。
本当はお金は一つの指標にしか過ぎない。
でも悔しいほど、お金は解りやすい
だから、つい他にも指標があることを忘れてしまう。
お金は、人が生活の中で常に使っている指標
しかも物々交換で生活を成り立たせている地域を除けば、世界共通の指標
言葉よりも簡単に地域ごとの違いを乗り越えて、世界共通の指標となる
人に使われる指標
時間はお金に換えられない価値があるというのは簡単
きっと本当はそうなんだろう
でも、時間の価値を人に伝えるお金以外の指標を提示できなければ
時間はこれからもずっとお金に置き換えて考えられるのだろう。
お金に変わる指標ないかなあ。
【展示会】花森安治の仕事 デザインする手、編集長の眼
世田谷美術館で開催中の展示
「花森安治の仕事 デザインする手、編集長の眼」に行ってきた。
昨日NHKの番組「日曜美術館」で取り上げていた花森安治。NHKの朝の連続テレビ小説「とと姉ちゃん」でヒロインと共に出版社を立ち上げる花山伊佐次のモデルとなった人だ。番組の中で見た花森に対して、「しあわせを共有する天才」という印象を持った。
iimono-to-kurasou.hatenadiary.jp
番組の中で、モデルで雑誌の編集も行っている菊池亜希子が花森の作品を見て言った言葉がある。
「同じ編集者として、悔しいですね」(菊池亜希子)
私は編集者ではないけれども、
花森の生み出す作品を見ていて、菊池亜希子と同様悔しくなった。
花森の作品には、どれも花森の「手」を感じる。
特別な技術を使うわけでもなく、
誰でも手にできる道具で作品を仕上げている。
にも関わらず、
花森の作品は私を置いてきぼりにするのだ。
すぐ隣にいて触れられそうと思うのは一時、
到底追いつけそうもないことに気づく。
一番悔しかったのは、暮しの手帖の傘を並べたカバー写真
色とりどりの傘を閉じたまま、斜めに立てる
傘のそんな姿、初めて見た。
花森の作品は、いつもそこにあるものの「初めて」を見せてくる。
追いつけそうで全く追いつけない人だ。
そう思う一方で、花森の作品を見ていると、
「私にもできる気がする」
そう思えてしまうのだ。これが花森の凄さだ。
どうにもこうにも自分にはできない、
そう思わされるものであれば諦めがつく。
でも、花森の作品は手が届かないのに、届きそうなのだ。
だから悔しいのだ。